飛行艇開発ストーリー1

新型飛行艇の開発

飛行艇では世界最高性能を誇る、Made in JapanのUS-2型救難飛行艇。
「もう一度、この手で飛行機を創る」という技術者の熱い思いが集結し、1957年に「溝型波消装置」の発明に成功したことから、その歴史がはじまりました。

当社の前身は、創業から1945年までに2,800機以上の航空機を生み出した川西航空機株式会社です。
1949年11月に新明和興業株式会社(1960年に現社名に変更)として生まれ変わった後は、日本における航空機の開発・生産が解禁(1952年)されたことを受け、再び新しい航空機の開発を目指しました。

航空機事業の再開を熱望していた当時の社長、川西龍三は1953年に新型飛行艇開発に向けて航空委員会を設置しました。川西時代の飛行艇をはじめ、当時海外メーカーが製造している飛行艇は「波浪に弱い」という共通の弱点をもっており、「耐波性がよく、荒海での離着水が可能なものを開発することができれば、飛行艇の新しい用途が開けるであろう」と言われていました。
そこで、太平洋、大西洋などの海洋調査内容を検討した結果、波高3メートルの荒海で離着水可能な飛行艇の開発を目標に掲げ、国産の飛行艇開発がスタートしました。
波高3メートルの荒海での着水を実現させるためには、「水上滑走中の飛沫を消すこと」が最大の課題でした。当社は、設計者 菊原静男の発案により、1953年にこの研究に着手し、約4年かけて「溝型波消装置」の発明に成功します。この発明が飛行艇メーカーとしての当社の地位を揺るぎないものへと導いていきました。
第2の課題は、「高揚力装置の開発」でした。安全に海へ離着水するためには、離着水時の速度を大幅に低下させることが必要でした。1955年から研究に着手し、風洞試験を重ねて離着水時の速度を45ノット(毎時83キロ)まで低下させることに成功。STOL(Short Take Off and Landing)性を確立させました。この二つの技術を軸とした新型飛行艇の基礎設計が完成したのは、1959年のことでした。
1961年には、菊原を設計主任に据え、「飛行艇開発本部」を設置し、富士重工業株式会社と日本飛行機株式会社の協力の下、新型飛行艇の開発製造を具現化していきました。

川西一型機
川西一型機
PX-S 溝型波消装置
PX-S 溝型波消装置
風洞実験中の飛行艇木型模型
風洞実験中の飛行艇木型模型